はやぽん(@hayapon_adhd)です。
私は大人になってから発達障害(ADHD)と診断されたのですが、振り返ってみると幼少期からバリバリ発達障害の特性が色濃く出てました。
令和の時代だったら幼稚園時代で気づいてもらえたのかな・・・。
早めに気づいたらこんな苦労せずに大人になれたのかな・・・。
いろんな思いがめぐります。どんな子供時代を過ごしてきたのか、お読みいただけたら嬉しいです。
幼稚園時代
まずは私のこだわりについて。言葉の定義や使い方にこだわりがあったんです。
エピソード:
友達が惜しい(おしい)という言葉を「ほしい」と発音していたことについて私はどうしてもそれを指摘せずにはいられませんでした。
「お・し・いでしょ」と何回もしつこく友達に言いました。
まだまだ幼稚園生。言葉をうまく発音できなかったり、勘違いして覚えていたりする時期です。なのにしつこく「訂正」していた私。
私の言い方がかなり怒った感じだったんだと思います。ついに友達は泣いてしまいました。
それを見ていた先生が
なんでそんなことを言うの?
謝りなさい!
自分は悪いことは何もしていない。
発音の誤りを友達に教えてあげただけなのに・・・
友達を泣かせてしまったことに対して謝罪を求めらることに納得がいかない!
私は、謝まりませんでした。
周りの友達や先生から、友達を泣かせた自分が一番悪いということにされた、それがとても悔しくて私も泣いてしまいました。幼稚園のできごとですが、すごくよく覚えています。
小学校時代
トイレ事件
1年生から2年生に学年が変わり、教室の階が変わったのでトイレの場所も変わりました。そうすると教室から1番近いトイレを使うようになるのですが、私にはトイレの場所を変えることができませんでした。他のトイレが怖くて入れなかったんです。2年生になっても1年生の時に使っていたトイレまでわざわざ行っていました。
ある時、1年生の時から使っている「いつものトイレ」が工事のためしばらくの間使用ができませんでした。
工事でお気に入りのトイレが使えなくなったことで1日中トイレを我慢していました。
学校ではトイレに行かずに我慢するという生活が続いていました。
しかし!ある日の下校中、尿意を我慢できずに「お漏らし」してしまったんです。その場で泣いて立ち尽くしてしまいました。さすがにこの年でお漏らしは恥ずかしかった・・・・。
それ以降は徐々に他のトイレを使う練習を自分でして、なんとか別のトイレでもできるようになりました。
トイトレ(トイレトレーニング)したんです(笑)
言葉をそのまま受け取る
体育の授業中、私が友達同士でふざけていた時のこと。
先生がその光景を見て大激怒!!
そんなにやる気がなく、ふざけているならもう授業は終わりにして片づけて教室に帰れ!!
体育の先生は怒るとかなり怖い先生でした。その先生がカンカンに怒っていたら普通の小学生ならビビッて謝る、もしくはふざけるのをやめて真面目に授業に戻る、ということをすると思います。しかし、そこで私が取った行動は・・・・
やった、もう授業受けなくていいんだー。
じゃあ、ボールとか片づけて教室に戻っていいんだー
と先生のいうことを言葉通りに受けとって、一人で片づけて一人で教室に戻りました。
その後に先生や友達から
なんで、あの時、先生に謝らなかったんだ!
と詰められました。
しかし、私は怒られる理由が全く分かりませんでした。
だって先生は片づけて教室に帰っていいって言ったじゃない。
だから帰ったのになんで怒るの?
じゃあ先生は嘘をついたの?
先生は嘘をついてもいいんだね?
と大声で言い返しました。
思い返すと、ひどいぐらい「言葉をそのまま受け取る」という特性が出ちゃってます・・・。(・_・;)
その人が意図している言葉の裏の意味を理解できないんです。それからしばらくはみんなの態度が冷たかったという記憶があります。そりゃね。そうなりますよね。今では言葉の裏の意味を理解できるようになりました。成長したなぁ。(笑)
発達障害だって日々成長するんだよ!!
発達がゆっくりなだけで、いつか追いつくんです。
勉強の理解度
足し算、引き算、掛け算、割り算くらいまでは普通にできていました。
分数あたりから難しさを感じ始めました。ほぼ概念が理解できていなかったです。
そして文章題の算数の問題が致命的にできなかったです。
問題の意味が全くわかりませんでした。何回問題を読んでも全く頭に入ってきませんでした。初歩の足し算、掛け算などの文章問題でもかなり困難に感じていました。
(引用元:すたぺんドリル)
このくらいのレベルの問題から訳が分からなくなっていました。何度問題文を読んでも全く理解ができなかったのです。何回読み返しても集中して問題分を読むことができず授業中はぼーっとしたまま机に座ったまま空想をして遊んでいました。空想の世界に入っていないとソワソワしてしまって座ることができませんでした。私の父は私立の進学高校の数学の教員をしていましたので、こんなに算数ができないことが父には理解不能だったみたいです。数学を教えている先生の息子がこんなにも算数ができないなんて・・・。
っと両親はそう思っていたと思います。
母も教育、勉強にはとてもうるさく、自分の成績や将来のことを毎日のように父と話し合っていました。
私の母親は大学を卒業した後に銀行へ勤め、私が生まれたあとは専業主婦をしていました。母は専業主婦だったので、つきっきりで私の勉強や行動について干渉してきました。そして私は一人っ子だったので、逃げ場がありませんでした。父親が教員だということが大きかったと思うが、母親は私に父親と同じくらいに勉強ができてほしい、成績が伸びてほしいというプレッシャーを感じていたのかもしれません。
母親は情操教育に効果的だとかいう理由で幼稚園の頃からエレクトーンに私を通わせたりと教育には熱心でした。
学校の宿題を夕ご飯のあとにするのだが私はその時間が最も辛く、嫌な時間でした。
父親、母親は机を何度もバンバンご叩いて、
なんでこんな簡単な問題も解けないんだ。上の空で聞いているから集中できないんだ。
と私のことを怒りはするものの、具体的にどうやれば勉強ができるようになるのかは教えてはくれませんでした。
私は上の空(うわのそら)という言葉をその時はわかりませんでしたが、すごい勢いで両親が怒っているので良い意味で使ってるのではないんだろうなと思って聞いていた。(怒られた後で国語辞書でうわのそらという単語を引いてみると
うわ‐の‐そら〔うは‐〕【上の空】
の解説
[名・形動]
- 1 他の事に心が奪われて、そのことに注意が向かないこと。また、そのさま。心が浮ついて落ち着かないさま。「―で人の話を聞く」
引用元 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B8%8A%E3%81%AE%E7%A9%BA/
という意味がでてきてショックを受けてさらに泣いてしまいました。発達障害の特性の一つに、興味のあるものにはひたすら調べたり、何時間でも集中できるというものがありますが、私にとって言葉を調べるということはすごく面白いもので自分から本を読んでしらべたり辞書を引いて勉強していました。一方で算数については全く興味や関心が沸かずにそのせいで授業中や宿題中もぼーっとしてしまい集中することができずに問題分が頭に入ってこなかったのだと思います。
中学生時代
勉強は完全にやる気がない状態になっていました。
120人くらいいる中で私の順位はいつも110番前後でした。先生からも馬鹿にされ、授業で先生が言っていることの意味が全く理解できませんでした。授業中は知らない国の言語を聞かされているような感覚でした。ある日、家で両親から
そんなに勉強やる気ないなら勉強するな!
勉強やる気がないんでしょ!
言い方があまりにも私のことを馬鹿にするような感情的な言い方だったので私も衝動的に両親の目の前で学校の教科書をビリビリに破り捨ててしまいました。
もう、これで勉強しなくていいんだ。
両親は自分に勉強のやる気を出させるつもりで発言したのだと思います。自分の成績を心配するあまりに感情的になったのだろうと今では思います。私が教科書を破り捨てた姿を見て母親は泣いていました。数日後、父親は私が破り捨てたのと同じ教科書一式を持って帰ってきました。勤務先の学校で余っている教科書を持って帰ってきたのでした。教科書を手渡されて私は愕然としてしまいました。
なんてことだ。もう勉強しなくていいと思ったのに結局は逃げられないのか
この事件の後、私は個別指導の塾に強制的に通わされることになります。しかし、勉強に対してやる気、モチベーションが完全にない人間を強制的に机に縛り付けて意味のある事は何一つとしてありません。結局、中学時代の勉強では分数すら理解することができませんでした。
高校時代
そんな調子で高校も偏差値38の私立高校へ進学。名前さえ書ければどんな生徒も受け入れているような高校でした。学校の期末テストでは This is a pen レベルの英語の問題
それでも赤点を取る生徒がそれなりにいる学校でした。初歩レベルの内容の内容をひたすら繰り返す授業を展開していました。素行が悪い生徒も多く、土足で教室に上がり込む、教室で喫煙する、学校帰りにパチンコへ行くといった事を彼らはしていました。学校に通っている生徒達は中学生の時の私のように勉強が苦手だったり、先生や親からも馬鹿にされ、世間や大人たちにフラストレーションを抱えている子が多く、私も彼らと同様に大人たちを敵視していました。私は目立つ不良行為はしていませんでしたが「みんな死んでしまえばいいのに」「世の中の大人たちが憎い」という負の感情を常に抱えて過ごしていました。
※多分あのまま負の感情を溜め込み続けていたら何らかの精神障害で潰れてしまったり、犯罪行為を起こしてしまっていたのかもしれません。そんないい思いだったとは言い難い中高生時代を過ごしてきた人間が警察官として割と長い間勤めてきたのですから世の中不思議だと思います。
浪人一年目
勉強が全然できない、面白いと感じたことが全くなかった中学、高校時代。一応大学受験はしましたが受験した大学全て不合格、浪人生活へ突入することになりました。ふと、今後の人生を180度変える出来事が浪人中の私に起こりました。当時、私はモーニングという漫画雑誌を読んでいてこの雑誌で当時連載を開始し始めた「ドラゴン桜」という漫画のストーリーに自分の境遇を投影して考えるようになりました。
ドラゴン桜 全21巻完結セット (モーニングKC)
内容紹介
おバカが集まる龍山高校が、倒産の危機。債権整理するためにやってきた弁護士・桜木は、急に気を変えて、一年以内に東大合格者を出して、学校を超進学校化して有名にし、再建することにした。桜木自らが、特別進学クラスの担任となり、集まった水野と矢島の二人を教える。伝説の数学教師・柳、英語の川口、国語の芥山、理科の阿院と個性的で強力な教師陣集まった。それぞれの教師が教える勉強法は、ユニークで効果的なものばかり。受験生必読の東大合格請負漫画!!
第29回講談社漫画賞 一般部門受賞作品
何も将来に備えずにその日のことだけを刹那的に生きる、これを毎日繰り返すと将来、自分はどうなってしまうのか、勉強をしないとどうなってしまうのかそれを考えると怖く怖くてこれは真剣に考えなした方がいいかもしれないと思うようになっていきました。まずはこの漫画で紹介していた英語の参考書や単語帳を少しづつやり出して勉強を自分からするようにしていきました。
勉強が楽しいと感じるようになった
ドラゴン桜との出会いがあり、将来への備えの重要性を認識し始め勉強に対しても真剣に考え始めるともに人生を変える人との出会いがありました。それは浪人中に通っていた塾の先生との出会いです。私は社会は地理を選択していました。たまたま地理を選択していた生徒は私だけで、集団塾にも関わらず地理の授業は先生と私の一対一のスタイルでした。
記述式の答案を書く時に先生は私が書いた文の て・に・を・はの使い方が変だったことを見抜き
て・に・を・はの使い方がおかしいと点数を取れないよ。
と言うか国語の基礎学力が不足しているよー
国語力を見直さないといけないと国語の文法についても地理にも関わらず個別で指導と添削を受けることになりました。その他のエピソードとして
先生:「赤道の長さが分かると地球の大きさや距離が分かるよね。地球一周4万キロくらいなんだけど、その場合は地球の直径ってどれくらいかな?」
私:「え、なんでそんなことが分かるんですか?全然分からないです。」
先生:「え、だってそれ小学生の時に習った所だよ、円周率とかの。」
私:「円周率ってなんでしたっけ?聞いたことあるような気がしますけど……」
先生:「まじ?それは常識なやつだよ。思い出せないなら復習しとかないとね。算数って算数や数学の問題解く時以外にも必要になるからね。じゃあちょっとやろうか。」
と地理の授業なのに他の科目も勉強することに。
勉強が楽しいと視野や興味が広がる
先生の授業が楽しみで先生からは色々な事を教わりました。先生:「赤道って英語だと the equatorって言うんだけど、これって英語のequal=イコールと語源が一緒なんだよね。地球をボールに例えたときの上半分と下半分の中間=イコールな地点に赤道を置いたんだよ。例えば南米にエクアドルっていう国があるよね。エクアドルはスペイン語で赤道を意味していて英語表記だとRepblic of Ecuador 国の名前が赤道を意味しているんだ。これでエクアドルがどこにあるのか忘れないよね。」
と先生の話はとても面白く、一つの知識から新たな発見や知識が無数に広がっていく気がして勉強すればするほど視野が広がっていく感覚がありました。
先生は
大学に行ったら大事な事は知識を芋ずる式に学んでいくことなんだよ。それが大学で勉強することの楽しさだよ。
そして先生はレベルの高い大学に行けば行くほど色々な知識や人に出会える可能性は高い、だから受験するならなるべくレベルの高い大学を目指した方がいいとよく言っていました。塾の先生の授業を受けて
勉強って実は楽しいものなんだ。今までは勉強をする意味も分からずに机に座らされていただけだから成績が全然伸びなかったんだな。
と勉強に力が入るようになり、ドラゴン桜の主人公達のように東大とまではいかないまでも明治大学には合格することができました。
ドラゴン桜 全21巻完結セット (モーニングKC)
偏差値38からの逆転合格、人生で初めての成功体験でした。
最後に
私は小学生、中学生、高校生までは勉強する意味も楽しさも教えてもらうことなく育ってきました。発達障害の特性の一つに、興味があるものについては時間を忘れてのめりこむことができるけど興味、関心がないもの自分自身で納得できないものには注意を払えない、集中することができないというものがあります。
私は浪人中に塾の先生に出会って勉強の楽しさややる意味が理解できるようになっという体験が私の人生を大きく変えることにつながりました。
私は現在、発達障害や知的障害を持つ児童を支援する仕事をしています。私の辛かった子ども時代の経験を通して幼少期の教育や大人達との健全な関わりが人生に大きく関わると身をもって体験してきました。今後も、私にできることは小さいですが子どもたちの明るい未来を創る支援ができればいいなと感じました。
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